【書評】『いとも優雅な意地悪の教本』橋本治(著)・集英社新書
【日本人は下品になった】
「日本人は下品になった」ここから本書ははじまる。
そして、その理由は「上質な意地悪が足りない」からであるというのが著者の結論だ。
本書では「意地悪とは何か?」という定義と考察、「日本人の中で有名な意地悪な方々」を取り上げており、樋口一葉、紫式部、夏目漱石など日本を代表する方たちである。
それらを経て、「日本人にとって悪とは何か」を考えるという構成となっている。
非常に興味深いだったので、本ブログでは本書の面白かったポイントをまとめておくことにしよう。
【暴力と意地悪の違い】
暴力と意地悪の違いについて著者は、「強さ」をあげている。
著者は、「暴力はただのバカだが、意地悪ではそうではない」という説明をしている。
どういうことか?
「暴力というのは、実行行為だけではなく言葉の上だけであっても、単純な行為なので、『誰がやったか』はすぐに分かります。『誰がやったか』が分かる上に、単純な行為はその単純さゆえに、簡単に伝播します。つまり、暴力は簡単に応酬され、簡単に連鎖を生むということです。
ところが、意地悪というものは、暴力と違って複雑な行為です。『誰がやったか』がすぐに分かってはいけないというのは当たり前で、『なんのことなのかよく分からない』というのが意地悪です。考えてしばらくして『意地悪をされた』と気がつくのが意地悪で、意地悪であるかどうかすぐには分からないのが意地悪なので、私は面倒にも思いながら、『ここに意地悪がありますよ』と註記をしているのです。」
そして、意地悪についてさらにこの様な考察をしている。
「意地悪の基本姿勢は完全犯罪です。『私がなにかしたの?』という前提で芳しからぬことをするのが意地悪です。ハタから見れば『明らかに意地悪だ』であっても、当人的には『清廉潔白』で、『私が意地悪なことをしたという証拠は何もない』と胸を張っていられるところが、意地悪の意地悪たる所以で、別の言い方をすれば、意地悪というのは、いたって優雅な行為なのです。」
意地悪は優雅な行為である。
意地悪のイメージが変わるのではないだろうか?
そして著者は日本の学校教育で意地悪教育をすればいいのにと語っているぐらいだ。
最近はSNSでも暴力的な表現が問題になっている。
それは表現力が足りていないことも大きな原因だろう。
それは意地悪教育によって改善される可能性がある。
「二人ずつペアになって、お互いに相手を傷つけないような悪口を言う練習をしましょう、傷つけたら負けです」
いった具合だ。
私もこのアイデアには賛成である。
【知性とモラルの分離】
著書では意地悪な日本人を紹介している。
樋口一葉、紫式部、夏目漱石など著名な方々ばかりである(笑い)。
それはなぜかというと、「頭がよくなければ意地悪にはなれない」からだ。
著者はこう語っている。
「頭がよくなければ意地悪にはなれない、当たり前のことです。なにしろ意地悪には『教育』の一面があります。にもかかわらず、『意地悪な人は性格が悪いんじゃないか?』というへんな思い込みもあります。残念ながら、『意地悪な人は性格が悪い』というのは、常識的な凡人頭のひがみです。『常識的な頭』で生きている人は、『自分が騙されるわけはない』と過大に信じているので、うっかり意地悪に出逢ってしまうと黙って見過ごせず、人格攻撃をしてしまうのです。人格攻撃などというのは誰にでも出来ることですから、そんなもんなんでもありません。」
本書の意地悪な有名人は文学者が多いが、著者が文学者というよりも性格描写とか心理描写というものは、意地悪な目がなければそもそもできないということである。
そして、知性とモラルについての話になるのだが、著者は最近は知性とモラルが分離しているのが重要な問題であることを指摘している。
「昔の人は、知性とモラルを同居させていましたね。だから『立派な人』になれた。しかし世間一般の『知性』を有する人達は、『モラル』と離別したまま軽快になっている。『だから、軽快になった日本人の社会は下品になったんだな』と思っている。」
知性とモラルを同居させることができるのが意地悪の本物の姿であることは非常に感銘を受けた。
「『悪口を発見し発明する』というのは知性のなせる業ですが、『悪口を悪口として感じさせない』というのは、知性と同居するモラルのなせるものです。」
いかがだったろうか?
意地悪についての見方が変わったのではないか。
僕も良い意地悪を身につけるべく精進していこうと思う(笑)。
かなり面白く深い考察なので興味のある方は読んでみて欲しい。