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【書評】『「奥の細道」をよむ』長谷川櫂(著)・ちくま新書

 
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【僕にはまだ早い】

日本人なら誰でも知っている『奥の細道』。

著者は松尾芭蕉にとって『奥の細道』はどんな旅だったかについてこう語っている。

『おくのほそ道』は旅の途上、「かるみ」に気づき、旅を終えたあと、この「かるみ」を積極的に説きはじめる。『おくのほそ道』とは「かるみ」発見の旅だったのである。

この「かるみ」とは何か?

それを松尾芭蕉が辿った『奥の細道』を振り返りつつ解説したのが本書である。

僕は俳句はやったことがなく詳しくもないのだが、ただの知的好奇心で本書を買った。

書評ができるほどではないことは重々承知しているが、ここでは僕が心に響いたところをまとめておくことにする。

ご了承いただければ幸いだ。

【松尾芭蕉がたどりついた「かるみ」】

本書の中心的なテーマである「かるみ」。

著者はこのように述べている。

芭蕉の「かるみ」の発見とは嘆きから笑いへの人生観の転換だった。『おくのほそ道』の旅の途中、芭蕉が見出した言葉の「かるみ」はこうした心の「かるみ」に根ざし、そこから生まれたものだった。

俳諧はもともと滑稽の道、笑いの道なのだ。とすれば、「かるみ」とは俳句の滑稽の精神を徹底させることでもある。そして、芭蕉の見出した「かるみ」はその後も時代を超え、言葉を変えて俳人たちによって脈々と受け継がれていく。

病重い正岡子規が「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」と書いた、その「平気」ということ。老年の高浜虚子のいう「遊び心」。どちらも芭蕉の「かるみ」の近代的な変容であり、変奏である。長く悲惨な人生を生きていく宿命にある現代人にとって「かるみ」はまたとない道しるべとなるだろう。

僕は「かるみ」とは「悟り」と同じだという解釈をしている。

【芭風開眼の句】

古池や 蛙飛こむ 水のおと 芭蕉

この句は芭蕉の句の中でも最も有名な句である。

そしてこの句は芭風開眼の句と言われている。

それはなぜか、その理由をこの本から読み解いてみよう。

私たちはこの句は「古池や蛙飛こむ水のおと」という全体が一気に誕生したものと思いこんでいるのだが、その漠然とした先入観がここで打ち砕かれてしまう。「蛙飛こむ水のおと」が先に生まれ、「古池や」があとでできた。

ここで大事なことは、蛙が水に飛びこむ音が芭蕉の耳に聞こえた現実の音であるのに対して、古池は芭蕉の心の中に現れた想像上の池であるということ。とすると、古池の句は今まで誰もが信じて疑わなかった「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という意味ではなかった。現実の蛙が心の中の古池に飛びこむわけにはゆかないからだ。古池の句は詠まれてから三百年間、誤解されてきた名句ということになるだろう。

古池の句は蛙が水に飛びこむ現実の音を聞いて古池という心の世界を開いた句なのだ。この現実のただ中に心の世界を打ち開いたこと、これこそが芭風開眼と呼ばれるものだった。

俳句を現実を表現するものではなく、自分の世界を表現するものに変えたのが芭蕉だったのだと理解した。

後世に詠まれるものはこういうものだとも思う。

【最後に】

いかがだったろうか?

俳句をよく知らない方にも興味をもたれたのではないだろうか。

そう思ってくれたら嬉しい。

そして、本書は本棚に残しておこうと思う。

いつか人間的に成長したと感じた時にゆっくりと読み返して味わってみたい。

そんな深い本であった。

【さらに理解を深めるために】

『わたしと小鳥とすずと』金子みすゞ著・JULA出版局

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